服部公太という元Jリーグ選手がいる。有名な選手ではない。「ああ、服部公太?知ってるよ。」という人は、大体ジュビロ磐田の黄金期の主力で、日本代表でも活躍した服部年宏と間違えている。実際、そのプレーした時期、ポジション、そしてどことなく地味な風貌において、両者はよく似ているのだが。
服部公太は、1996年に渋谷幕張高校からサンフレッチェ広島に入団、16年間にわたり広島一筋でプレーした後、2012年にJ2のファジアーノ岡山に移籍、そのシーズン終了後に引退した選手である。日本代表歴はない。主たるポジションは左のサイドMF。プレースタイルはサイド突破からの正確なクロスと、そしてとにかくよく走り、よく守る、いわゆる「汗かき屋」である。17年間のプロ生活で挙げたゴールは23点と多くない。派手な技術を見せつけるわけではなく、ゴールを決める選手のためにクロスを送り続け、おいしいところは全部チームメートに譲る。そして相手ボールになれば敵陣深くから自陣ゴール前まで一目散に駆け戻る、とにかく「損な」選手である。
この服部公太、実はとてつもない記録の保持者であった。今でこそ更新されてしまったものの、2002年11月から2007年10月までの連続試合フルタイム出場のJリーグ記録である。通常、サッカーの連続出場記録を打ち立てるのはゴールキーパーと相場が決まっている。そうでなければ、せいぜいセンターバックである。現代サッカーで最も運動量が多く、しかも接触が多いため怪我や出場停止も多いサイドMFで、この記録を達成するというのは並大抵のことではない。実際に、両足の甲を骨折した状態で試合に出たこともあり、付いたあだ名は当然「鉄人」である。
これだけの選手、本来であればもっと注目されても良いはずなのだが、なぜか彼にはいつも脚光が当たらない。過小評価されていると言われれば、そうかもしれない。それが彼の地味なキャラクターによるものなのか、広島という地方クラブにいたことによるものなのかは分からないが、とにかく彼の名は、全国区で取り上げられることはほとんどなかった。
彼が現役の間、広島は2度のJ2降格を経験している。降格を機にチームメートが次々とチームを去る中で、彼は「広島で優勝したいから」と言い、移籍話に耳を貸さなかった。そして、J2でも毎試合ひたすら正確なクロスを供給し続け、2度とも1年でのJ1復帰に貢献している。彼がもしチームを去っていたらこれほど簡単に1年でのJ1復帰はできなかっただろうし、もしそうなれば、もともと慢性的な資金難のクラブである。今現在サンフレッチェ広島というクラブが存在したかどうかもわからない。
そんな服部公太にも、その貢献が報われる機会がなかったわけではない。引退後の2013年末、見ている人は見ているというべきか、Jリーグから「Jリーグおよび日本サッカーの発展のために貢献をした」として、功労選手賞を受賞することとなった。その年に活躍した選手を表彰する「Jリーグアウォーズ」、満員の横浜アリーナの舞台裏で、裏方さんとの「人前で何しゃべっていいか分からないよ」「服部さん、何万人もの観衆の前でプレーしてたじゃないですか」「いや、あれは別」なんてやり取りをしていたのが印象的であった。人前で目立つのは大嫌いなのだろうけど、彼の功績はもっと人の記憶に残って欲しいな、そんな気持ちでテレビを見ていた。ところがこれも彼らしいというべきか、この時に同じ功労選手賞を受賞したのが、よりにもよってあのゴン中山。当然、表彰の舞台は彼の独壇場。観客はゴン中山が出てくるだけで大盛り上がり、誰も他の受賞者なんて見ちゃいない。もはや他の受賞者には罰ゲームだな・・といった印象。もちろんゴン中山はこのキャラクター(だけではないが)で日本サッカーの発展に大貢献したのだからいいのだけれど・・。ここでもまた、彼はその実績に見合うだけの記憶を、人々の心に刻むことができたとは言い難かった。
そんな無類のタフさでチームを陰から支えた鉄人も2010年頃から衰えが見え始め、2011年のオフ、戦力外通告を受けて岡山に移籍することになった。皮肉にも、広島は彼の抜けた2012年に初優勝。あれほど「広島で優勝したい」と望んだ優勝を、隣県から眺めるしかできなかった彼の胸中はいかばかりか。あと1年チームに残ることが出来ていたなら。。
サンフレッチェ広島は2012年の初優勝に続き2013年シーズンもJリーグを連覇、現在3連覇に向けて好位置をキープしている。各ポジションにはいずれも日本代表候補レベルの選手を揃え、まさに黄金期を謳歌しているといった趣である。しかし、服部公太が主戦場とした左MFだけは、2012年以降6人もの選手が試されている。チームの長い冬の時代を黙って支え続けた鉄人の抜けた穴だけが、まだ埋まらない。
パートナー 宮之原大輔