A&A blog

マイブーム

07.26

今回は、最近のマイブームの「日本史(特に戦国時代)」についての情報収集の過程で、感じたことを書きたいと思います。
 
≪史実でないことがある≫
(その1:毛利家の三本の矢の教え)
自分の苗字「三矢」と「毛利家」は関係ないとは思いますが、毛利元就が、その3人の子供たちに残した教訓(三本の矢の教え)の話があります。
具体的には、戦国武将の毛利元就が、死の間際に、3人の子供たち(毛利隆元、吉川元春(吉川氏に養子)、小早川隆景(小早川氏に養子))を呼び寄せ、「一本の矢は容易に折れるが、三本まとめると折れにくくなることから、3人で力を合わせて一族を結束していくように」と説いた教えです。
しかし、実際には、毛利隆元(1563年没)は、父である元就(1571年没)よりも8年も先に亡くなっていることもあり、この教訓は書状(1557年作成)により子供たちに伝わったのが史実みたいです。
ここで、毛利元就の父、兄は、若くして、飲酒等が原因で亡くなっています。そのため、元就自身は、父、兄の死を教訓として、飲酒を控え、75歳まで生きたとのことです。
 
(その2:真田幸村の名前)
真田幸村は、豊臣方の武将として大坂夏の陣(1615年)において徳川家康を追い詰め、本陣まで攻め込んだ活躍もあり、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」として知られる有名な戦国武将です。しかし、この「幸村」については、江戸時代の軍記物の中で紹介された名前と言われており、実際は、「信繁」と言います。
この「信繁」は、真田家が使えていた武田家の当主「信玄」の実弟「信繁」に由来するものです。そして、この武田信繁は、兄である信玄を献身的に支え、武田家で重要な役割を果たしておりましたが、第4次川中島の戦い(全部で第5次まで)の際に、信玄の身代わりとなり37歳という若さで亡くなりました。
そして、この武田「信繁」のように真田家を支えてほしいと、父である真田昌幸が、真田「信繁」と名付けたのが史実みたいです。
 

≪理解が深まったこと≫
長年の「うやむや」がはっきりしたことがありました。
 
それは、「なぜ、関ヶ原の戦い(1600年)において、真田家は、東軍(※1)、西軍(※2)に分かれて戦えたのか?」ということです。
 
※1 総大将:徳川家康
※2 総大将:毛利輝元
 
以前は、真田家の父(昌幸)が、関ヶ原の戦いにおいて、東軍、西軍のどちらが勝利しても、真田家が生き延びるように、東軍に息子(兄:信之(信幸))、西軍に自分(昌幸)、息子(弟:信繁(幸村))を参加させたと理解していました。しかし、その理由はわかりませんでした。
 
しかし、たまたま図書館で借りた子供向けの歴史漫画より、その背景が「婚姻関係」だと知りました。これこそ、まさに「目から鱗(うろこ)が落ちる」ことだと思いました。長年の「うやむや」がはっきりして、よかったです。
 
具体的には以下の通りです。
 

  内容
兄:信之(信幸)が東軍になった理由 兄:信之(信幸)の正室が、徳川四天王の一人である本田忠勝の娘
⇒東軍となる。
父(昌幸)、息子(弟:信繁(幸村))が西軍になった理由 ①父(昌幸)の正室と、石田三成(西軍)の正室が姉妹
②弟:信繁(幸村)の正室が、大谷吉継(西軍。石田三成の親友。)の娘
⇒西軍となる。

 
そのため、父(昌幸)が意図したというよりも、婚姻関係から、真田家が、東軍、西軍に分かれたというのが史実みたいです。
 
まだまだ知らないことの多い「日本史」ですが、知ることで視野が広がっていくこともあり、マイブームは引き続き継続していくと思います。

氏名:三矢 涼
出身:東京
趣味:読書、散歩、日本史の情報収集

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