2008.04.28

私が子どもだったころ(車編)

 

NHKBShiで「私が子どもだったころ」という番組をやっている。今第一線で活躍している著名人(芸能人、学者、作家、などなど)の子どものころの話をドラマ仕立にしている番組。日曜日の深夜にたまに遭遇する。名人の年齢によっても違うが、子どものころの時代背景が写し出されて、懐かしい風景や人間関係を微笑ましく思う。

こんな番組をみて、自分の子どものころの一大イベントを思い出した。

 

 私は、子どものころを埼玉県秩父市で過ごした。中学校から東京の学校に通っているが、それまでは、自然いっぱい、桑畑と機織の音の響くのんびりした田舎で暮らした。私の子どものころは、昭和30年代(歳がわかってしまいますが…)、生活水準が日々向上、変わっていったような気がする。

 生活を一変させた出来事が我が家の自家用車購入プロジェクトである。私がこのプロジェクトに巻き込まれることになったのは、母が自動車の免許証を取ることになったときからだ。たぶんあれは小学校低学年、Allways三丁目の夕日よりちょっとだけあとの話、秩父には当時自動車学校がなく、熊谷まで通う必要があった。熊谷の自動車学校だってまだできたばかり、車の免許を持つなど珍しい時代、まして女性が取得するなんて教習所に驚かれたそうだ。父は仕事が忙しく、秩父に自動車学校ができるまで免許証取得は断念せざるをえない。自家用車を購入しても運転できなければ無用の長物、そこで、このプロジェクトは母の免許証取得から始動したのだ。

熊谷まで秩父鉄道で片道1時間、熊谷で乗り換えて高崎線で籠原駅まで行き、そこから徒歩だった…よく覚えていないが、まる1日がかり。夏休みに私は母に連れられて、通った。1時間程度の実技訓練の間、自動車学校がよく見える土手に座って母の運転を眺めていた。同乗は許されない規則となっていたが、教官が一人ぼっちの私を可哀そうと思ってか、乗るようすすめてくれたが、これが迷惑な話なのだ。車酔いしやすい私にとって、母の急発進、教官の急ブレーキで、一層ひどい目にあった。ご親切な教官には悪いが、私はやはり土手にいて、イチゴジャム入りのコッペパンをほおばりながら、野良犬を追いかけていることを好んだ。

実技の他に講義があるようで、母は「構造」(自動車のメカニズム)が難しいと言っていたのを覚えている。「法令」と「構造」がペーパー試験の対象だった。10回も受けていると豪語しているトラック運転手志望のおじさんが、母に親切にも勉強の方法()を説いていた。当時は自動車学校内だけの運転実技の習得で、市街地での実技指導はない。免許を取得すれば、もう一人で市街地を走れるのだ。

母がとうとう自動車学校を卒業、というか、めでたく自動車免許を取得した。おそろしいことに早速自家用車が我が家に到着、ダットサンのブルーバードだったような気がする。ダットサンは日産に吸収されて無くなったと思っていたら、日産の小型車レンジの商標だったそうで、快進社自働車工場(自ら働く車なのでしょうか…)の創始者3名の頭文字DATをとり、これを「脱兎」にかけ、さらに息子という意味でSONをつけてみたら、「損」と日本語では読んでしまうので、太陽の意味でSUNとしたとか。

我が家の初代の車は、多分中古の茶色だった。父に聞くと30万円したとか。事務職の女性を1カ月1万円未満で雇用できた時代。高額な買い物であった。しかし、冬の寒い日にはエンジンがかからず、手回しハンドルをフロントに入れてぐるぐる回してエンジンをかけたり、峠道ではオーバーヒートして水をかけてみたり、ダブルクラッチとやらでエンストは何度も、などのトラブルが続く車であった。

大金を叩いて購入したのだから、我が家は何かと自家用車に乗って出かけることを好んだ。私にとっては、車に酔ってばかりいるので、極力乗りたくはなかったが、無理やり付き合わされた。車酔いは不幸にも小学校卒業するまで続く。

当時は、庶民のほとんどはバスや電車、自転車に健脚が交通手段だった時代である。自動車が走っていても、バスやタクシーで自家用車は限られていた。秩父と熊谷を結ぶ幹線道路も少し前に八間道路(ハチケンドウロと読む、14.5mくらいの幅、当時は目を見張るほどの広い道に思えた)と呼ばれる道幅に拡幅されていた。車の時代到来を見据えた工事だったのか。あの時代に拡幅工事をしていなかったら、道幅を広げるのは困難の極みだろう。荒船清十郎という名物代議士のおかげか…

秩父から東京へ行くには、電車で片道3時間以上かかっていたと思う。そこで自家用車で東京へ行くことが計画された。秩父から熊谷に行き、国道17号で東京へ向かう。途中、熊谷にある水戸屋というドライブインで休憩、五家宝(陸稲の菓子で黄粉がまぶされている、当時はおいしいと思った)というお菓子を買って食べたものだ。関越道など高速道路のない時代だ。もちろんカーナビもないので、地図を頼りに行くのだが、東京はさすがに秩父と違い、自家用車も多い。トロリーバスや市電も走っている。車線も1車線ではない。信号機も複雑だ。

車線変更の経験のない母が他の車線へ移動したとき、どこからか怒鳴り声が聞こえてきた。大きな交差点のど真ん中で、エンストして立ち往生、「旦那さんが運転しろ!」という声がかかる。でも父は免許証がないので無理。ようやくエンジンがかかり、この機を逃してなるものかと赤信号なのに堂々と右折した…私は目をつぶって全身に力を入れ、まるでジェットコースターのような体験、これも長い人生にはよい経験と前向きに考えるのが我が家のよいところ、恐怖の東京巡りは終わった。結局、時間的には電車とそうは変わらなかったのではないかと思う。だた手に汗握る体験は電車ではできないと思った。

秩父はセメントの町だけあって、夜中にセメント工場から粉が降ってくる。中古の茶色はそれが目立つ。これに懲りて1年後、2代目は新車で白色のブルーバードとなった。新車は120万円もしたとか。毎日車にカバーをかけ、それはそれは大切にしていたと思う。こうして我が家の自家用車購入プロジェクトは一応の終結となる。

 

坂本 裕子
(監査法人A&Aパートナーズ  パートナー・公認会計士)

(近況)
とうとう××に到達!顔のたるみ、目じりのしわが気になります。一生懸命顔のマッサージ…TV体操も頑張っています。地道な努力が実を結ぶと信じて…!

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